NPO法人ともに生きる街ふくおかの会: ドイツにおける共に生きるための試み

2017年3月14日火曜日

ドイツにおける共に生きるための試み

 事務局の伊藤です。3月上旬にドイツに一週間ほど滞在する機会がありました。難民受け入れでなにかと話題になるドイツですが、文化的背景の異なる人々と共に暮らす社会を作るための試みについて、今回興味深かったことを少し共有したいと思います。

 今回の滞在は、ビーレフェルトというドイツ北西部の街に主に滞在しました。地理の授業でよく名前を聞く、ルール工業地帯のあるノルトライン・ヴェストファーレン州の街です。
 この街では、昨年から「レイシズムに抗する行動週間」を3月に設定して、あらゆる差別や偏見、異文化理解に関わるさまざまなイベントを開催しています。3月21日の国際人種差別撤廃デーにメイン・イベントが行われるのですが、実際のところは「行動週間」と謳いつつも、行動月間(!)になっています。
 私が今回参加することができたのは、3月8日のイベントで「複層差別」に関わるものでした。具体的には、移民と障がいについてです。「移民」であることで、言葉や宗教などの文化的な違いによって、差別されることがあるのですが、これにさらに「障がい」が重なり、さらなる差別を受けるということに関するものでした。この差別を少しでも低減するために、何が必要なのかということが講演や分科会で話し合われました。
 特に印象に残っているのは、「社会参加のためには何が必要か?」という点が一貫して考えられていた点です。移民の持つ文化とドイツ文化で、「ハンディ」を持った人をどう支えるのか、家族で支えるのを基本とするのか、コミュニティで支えるのを基本とするのか、その考え方が文化によって異なることが挙げられました。これを踏まえ、コミュニティで個々の社会参加を支えようとするドイツ社会のリソースに、移民の人々がどのようにアクセスしうるのか、そのための合理的配慮について話は進みました。ドイツ人であろうと移民であろうと、障がいをもつ子どものための教育に対する親の関心は同様に高く、障がいを持つ子どもに必要となる力を指向した教育の必要性やそれにアクセスするための条件などが示されました。
 私が参加した分科会では、「ことば」に議論が集中していましたが、マジョリティが持つ偏見と異なりに対する寛容性についても話が及びました。「ハンディ」(移民であること、障がい者であること、女性/男性であること、ムスリムであること…等)は生得的にもたらされたものと社会が作り上げているものがあると。それに対して、私たちはいかに自覚的になり、寛容になれるのか、といったことが話されていました。
 話は移民・難民に対するドイツ語教育、さらには視覚・聴覚障がいを持った人に対するドイツ語教育、宗教教育などにも及びました(ドイツは宗教教育が公教育の中でも提供されています。近年は、ドイツ人の多くを対象としたキリスト教教育だけでなく、イスラム教の授業やすべての宗教を扱った宗教の授業も提供されるようになっています)。
 1日に渡るイベントでしたが、非常に内容の濃いものでした。

 これとは別に、「対話」についても考えさせられることが滞在中にありました。
 インド人とドイツ人の国際結婚家族、トルコ人とドイツ人の国際結婚家族と一緒に食事をしていたときに、トルコ人の友人に言われたことばです。

「『対話』が重要なのは分かるけれども、そうする気がない人を目の前にしたときに一体何ができるのだろうか?」

 私が答えに窮している間に話題は移り変わりましたが、友人が投げかけた一言は非常に大きなものだと思います。「対話」と言ってしまうのは簡単ですが、相手に本当に向き合おうとしたときには、大きなエネルギーを必要とします。私たちは日頃、どれだけ他者に向き合っているのでしょうか。
 成田空港で荷物をピックアップし、出口を出た際、図らずも東日本大震災が起こったそのときであり、黙祷を捧げるアナウンスが流れました。目を閉じ、耳を澄ませた短い時間にも、感情はわき出し、耳には時の流れる音が入ってきます。私たちはそんなことを感じる余裕も普段は持ち合わせていないかもしれません。
 共に生きるために、差別や偏見について考えるのは、他者に向き合い、自分の中にもある差別に向き合うことでもある、そして向き合う余裕を持つことの重要性を改めて考えさせられた旅行になりました。